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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

創作の部屋 3~ただ抱擁の時は過ぎ2

七、

「大丈夫…ですか?」
「ああ…大丈夫」
「気分が悪くなったら言って下さいね」
「ありがとう…あなたのおかげで少し気が晴れた」

ジンはテーブルの向こうのソニに目を向け微笑んだ。
その日はジンが初めて彼女をディナーに誘っていた。
ここのところほとんど会えなかった詫びと
ジンの心の内を知ってから気にかけてくれる彼女への礼のつもりもあった。

しかし予定していた店の近くで思いがけない人物に出くわした。
あの院長だ。
もう2年近く会っていなかった彼は少し老けたように見えた。
ジンは挨拶だけで通り過ぎようとしたが彼が声をかけてきた。

「元気そうじゃないか、雑誌の仕事も忙しそうだね」
「ええ」
「一般人は専門家と名が付けばどんな内容でも受け入れてくれるからありがたいね」

十分嫌味ととれるその言葉よりも
ジンは彼の目が隣のソニを意識していることを感じ酷く嫌な気分に陥った。


ヒョンジュが逝ってずいぶん後
ジンはその男の首を絞めかけたことがある。

荷物を引き取るために出向いたオフィス。
ジンが訪れる頃を見計らって院長がわざわざ顔を出した。
「あんなことになるとは思わなかったね、残念だよ」
何かと声をかけ続けたがジンは黙っていた。

居心地が悪そうな彼は元来腹黒い人間ではないが
しかし自分の立場を守ることに執着するタイプだった。
つい「悪気は…なかったんだ」と口を滑らせたのも
去っていくジンにさえ悪い印象を与えたくなかったからだろう。

「何のことです?」
「その…彼に…転院を勧めたことがあって…」
「…」
「つまりその…君はもうここで治療を受けることはないと…」
「何ですって?」
「いや…あのままではその…」
「それだけですか?」
「いや…あ…いや…そうだ」

ジンは思わず両手で院長の襟を掴んでいた。

「何を言ったんですか」
「いや…」
「何を言ったんですか!」

院長はジンの低い声と鋭い視線に怖じ気づき口を開いた。

このままではジンは君のために酷く辛い目にあうだろうと
ジンを想うならこのまま彼の前から去るべきだと話したこと。
ヒョンジュは最後まで静かにその言葉に耳を傾け
その目があまりに澄んでいたので理解してくれたものと思っていたこと。

ジンの真っ暗な心臓にどす黒い液体が流れ込むような気がした。
腕は院長の襟を絞め上げていた。

「言ったはずだ…そんなことをしたら許さないと」
「ジ…ジン君…」
「言ったはずだ!」

心配した同僚が飛び入って静止しなければ首を絞めていたかもしれない。
ジンは身体を拘束されながら声を上げた。

「彼はあなた達とは違うんだ!そんな俗な言葉が通用するような人間じゃない!
 全てを真っ直ぐ受け止めて全てを…」
「先生…しっかりして下さい」
「何のための線引きだ!異常なのかっ?どこが異常なんだっ!彼がっ?僕がっ?
 患者だからっ?男っ?女っ?いったい何のための区別だっ!」
「先生!」
「何をしたかわかってるのかっ!どんな魂をなくしたかわかってるのかっ!」

ジンは泣き叫んでいた。
ひと前で泣いたのはそれが初めてだった。
しかし。

違う…
院長に叩き付ける言葉じゃない…
わかっている…

向けるべき矛先は自分自身だった。
ヒョンジュに出会ってそれまでの傲慢な自分を見つめ直したはずが
結局は何も変わっていなかった。
自分の目線でしか捕らえられずにいた。
わかっていて今尚院長に毒を吐いている自分に嫌気がさす。

だがいずれにしろもうこの男の顔を見る気にはなれない。

憮然として乱れた衣服を直している院長と
心配そうに見送る同僚を残してジンはその部屋を出た。

「そちらの女性は?」

ぶしつけな院長の視線は興味以外の何ものでもない。
忘れかけていた怒りの影が見え隠れする。
答える義務はないと歩き出そうとしたジンはソニの言葉に振り返った。

「はじめまして。私は国際精神医学医療哲学学会のアジア広報担当イ・ソニと申します
 今回精神薬理学の特集を組むに当たって先生のお考えを取材させていただいています」
「え…あ…それは…どうも」
「では…あ、先生、もうお時間ですので」

呆気にとられている院長を残してジンとソニはその場を立ち去った。

「そんな学会あるの?よく似た名前は知ってるけれど」
「何となくありそうじゃないですか?」
「参ったな…薬理学も?」
「それは…私も…調子が悪かった頃に調べたりしたので…」
「…」
「空想癖も経験も役に立ちましたね」
「本当にあなたはおかしな人だ」
「それは…褒め言葉ですか?」
「そのつもりです」

ジンはキャンドルの向こうで少し楽しげなソニを眺める。
うす桃色のブラウスの彼女はとても美しかった。

何もなかった頃にはとても及ばないが
ソニと会っていると自然に近い自分でいることができる。
お互いの淀んでいた澱を少しずつ吐き出しながらも
決して傷を舐め合うような関係ではなかった。

どうにもならない弱く惨めな自分を知っていてくれる人がいる
懺悔しきれずもがく自分を知っていてくれる人がいる
それだけでよかった。

ここのところジンは少し落ち着いている。
痺れるような感覚も少なくなっていた。
いくらか仕事がはかどるようになり夜の酒場に出向くこともない。

しかしこうして穏やかな時間を過ごしていると
呵責を感じるのも事実だ。
大事なものを置き去りにしてひとり呼吸をしようとしているようで。

そしてそんな想いはソニにも伝わっている。

「辛かったら…辛い顔して下さいね」
「え?」
「母がよく言ってました…涙が溜まったら泣け、笑いたかったら笑え
 どっちか迷ったら迷った顔を見せてちょうだいって」
「…」
「だから私こんな我が侭になっちゃったんですけれど」
「…」
「先生?」
「ありがとう…」

車のライトが交差するきらびやかな大通りを歩きながら
ジンはソニに片手を差し出した。
ソニはそっとその手に自分の手を置き
ふたりは手を繋いだまま何も喋らず夜の都会を散歩した。


そんなささやかな静寂に突然の高い音が割り込む。

ジンの携帯の向こうに妹の震える声がした。
父親が倒れて救急で運ばれたという。

ジンはソニと共に病院に向かった。
そこはあのソニの勤め先の病院だった。

ICUの外で母と妹がベンチに座っている。
ジンが近づくとふたりが同時に立ち上がり彼にしがみついた。
ジンは懐かしいふたつの肩を抱きしめる。

その家族の様子をソニは遠くの廊下の隅で見ていた。

酸素マスクを付けた父は以前会った時よりずっと小さく見えた。
脳梗塞と診断された彼はここ1週間がヤマだと告げられている。

ジンはその力ない手を握ってみる。
もう話すことなど何もありはしないと思っていた父だったが
その冷たい手を感じるとあまりにも心構えのない自分に気づいた。


その日からジンはできるだけ父の元を訪れた。
ソニもそれとなく気を遣って様子を見に行く。

容態が安定したのは2週間ほどした頃だ。

まだチューブをつけ目を開けられるだけの状態ではあったが
わずかに言葉に反応する父を見つめながら
ジンは目に見えない何かに感謝した。


ジンの生活はすっかり落ち着いたものになっていた。

窓からの陽射しを感じてベッドから起き
仕事の手が空いた日の午後は父を見舞う。
病院の庭でほんの少しソニと会って話したあと
家に戻って残りの仕事を片付ける。

尚空いた時間には父の病の勉強をし
おそらく半身麻痺になるであろうと言われた父の将来のための
様々な可能性の模索や母たちとの話し合いをする。

一時は憔悴していた母が少しずつ元気を取り戻してくれたのも
ジンのささやかな励みになっていた。
母にはこれまで心配をかけ申し訳なく思っている。
そして「お兄さんが帰ってきてくれたみたい」
と嬉しそうに微笑む妹にも素直に感謝した。

クラッカーはいつの間にか戸棚にしまわれるようになり
冷蔵庫の中も少しばかり人並みになった。


ソニの生活も一見まるで同じようではあったが
彼女自身に気づかぬ部分に変化があった。

患者のシーツを替える時以前よりずっと丁寧に整える彼女がいた。
同僚に最近柔らかくなったなどと言われたりもした。
疲れて帰る小さな部屋もどことなく明るく感じる。
およそ女性らしからぬ殺風景な部屋に
小さなサボテンが置かれたのもその頃だった。

毎日ではなかったがやってくるジンの姿を
正面玄関の硝子ドアの向こうに見つけると心揺れる。

前庭の鮮やかな緑の中を歩いてくるジンは
印象派の絵のように美しく感じられた。
そして必ず想う。
ジンの傍らにはいつもヒョンジュがいるのだろう。
空気のように寄り添いヴェールで彼を包んでいるのだろうと。

ジンの微笑みの底の切り刻まれるような哀しみを思えば
胸の奥が熱く痛むのを感じる。

自分が負った傷など大したことはことはないのかもしれない。
確かに酷く傷つき足掻いてはきたけれど
後悔だけはしていない…

ジンに深く横たわる悔いの想いにだけは
決して口を挟むことができない…そんな気がしていた。


八、

その日の午後
ジンは紙袋をかかえたソニを家に迎えた。

ジンの誕生日。
ここ2年、妹が朝から母親の手料理を持ってやって来たが
今回は父の検査の日とも重なり妹はスープだけを置いて帰ることになった。

ジンはそんな予定を何気なくソニに話しながら
「ソニさんの手料理っていうのもいいな」とつい軽口を言ってしまい
冗談のつもりだったがそんな言葉を口にした自分にひどく驚いた。
そしてこの歳でその台詞にきまりが悪くなったことにも苦笑した。

ソニは正直言えば嬉しかった。
ここのところのジンの表情は初めて会った頃とはずいぶん違う。
深い憂いの影は変わらないが
時折優しい明るい目をするようになった。
それはあのフリーダのスイカの絵を見ていた瞬間の彼の目を思い出す。
そしてそんな彼に惹かれている自分にとうに気づいてもいた。

それでも返答に一瞬戸惑ったのは
いつだったかジンがヒョンジュと過ごしてやれなかった
誕生日の話をしていたことを憶えていたからだ。

水面(みなも)の鏡とそこに映る月のように寄り添っているふたつの心。

ジンの中で過去と”今”がせめぎあっているのがよくわかる。
自分がそんな場所に入り込んでいいものか迷い
そしてまた入っていきたい衝動にも揺れる。

「味のことを大目に見てくれるんでしたら」
「いや…でも…」
「今頃撤回しても遅いですよ、もうやる気になっちゃいましたから」
「ソニさん…」
「でも先生、胃は丈夫な方ですか?」

ソニの予想のできない明るさは楽しかった。
ジンはそれを素直に出せずにいたが。

テーブルの用意ができるまで書斎から出るなと笑う彼女に
ささやかなくつろぎを感じる。

その日の父の検査の結果も思ったよりよく
ジンは久しぶりにゆったりとした気持ちになっていた。

母と妹以外の女性が立ったことのない台所。
いつもは灰色の空間に人の気配がする。    
誰かがいてくれるというのは嫌なものではないと
ジンはぼんやりとその温かい物音を聞いていた。    

彼が部屋から出ると
テーブルの上にはささやかだが暖かい料理が並んでいた。

思ったように作れずどう見てもカッコがつかないので
早く食べてしまってくれと言うソニに思わず笑ってしまった。

ゆっくりと食事を楽しみながら
ふたりは今までになく多くを語った。

ジンは初めて小さいころの話をした。
父が嫌っていた祖父のことがとても好きだったこと。
書斎の手作りのデスクはたったひとつの彼の形見だということなど。

忘れかけていたそんな話をしながら
この寂しさの染み込んだ部屋で暖かい食事をとっている自分が
現実的でないような気持ちでもあった。 

ソニは小さなころのおかしな空想を沢山披露した。 
空を飛ぶのはしょっちゅうだったし
本の中に入るのも得意だったと笑った。

ひとに食事を作るのはあまりに久しぶりのことで緊張したが
微笑みながらおいしそうに食べ
自分のたわいもない話に耳を傾けてくれるジンに心潤う。

ただこうしていれば
すべてがうまくいっているようにも見えるのだが。

食事の後ワインとともに過ごすゆったりとした時間。
ジンはソファで楽しそうに微笑む彼女に満足していたが
ほんのり赤みの射す頬を美しいと感じた時
言いようのない感覚に陥った。

やはりそこに座っていたヒョンジュを思い出すのはいつものことだ。
静かに本を読んでいた彼の幻影はいつまでも心を捕らえ
自分の肩にもたれて詩を読む彼の香りには今も包まれる。

しかし今日はその映像が揺れた。
ブレたヒョンジュの瞳にソニの瞳が
ヒョンジュの唇にソニの唇が重なり息苦しさを感じる。
腹の底のうずきに鉛が落ちるような感覚だった。
ジンは困惑のため息をつき視線をそらす。

漂うその視線の先にはあの祖父の古びた写真がある。
彼は幼いジンによく言っていた。

 なぁジン…人も自分も思い通りにはいかないものだよ

ソニは古びた写真を見ているジンの横顔を見ていた。
いつものことだがそういう時の彼は何かを”見て”いるわけではない。

ジンの目がふと遠くを彷徨う時間には
もうずいぶん慣れてしまったような気がしていた。
ヒョンジュへの想いに漂っていることは承知の上だ。

しかしその日のソニの心臓はその名に痛みを感じた。
ジンが愛し今も愛し続けているであろう男。
ジンがそのすべてを慈しんだ男。

彼女はあまりに突然熱く渦巻き出した自分の感情に戸惑い
いたたまれなくなり立ち上がった。
そのままそこにいると窒息しそうだった。
まだそれほど遅い時間ではなかったが
長居してしまったことを詫び玄関に向かう。

ぼんやりしていたジンは急に帰ると言い出したソニに驚き
戸惑いながらその後を追った。

「どうしたんですか」
「すみません」
「ソニさん…」

何度もすみませんとだけ繰り返す彼女は
慌てたためにうまく靴を履けずにいる。
履いてしまえばドアを開け走り出て行ってしまうのだろう。

その後ろ姿を見ていたジンは堪らずに彼女を背中から抱きしめた。

「帰らないで」

白いうなじに頬を寄せてやっとのことで声を絞る。

硬直したソニの身体をこちらに向け抱きしめて
もう一度同じ言葉を繰り返した。
自分の衝動に困惑し声がかすかに震えているのがわかる。

ジンはただ身体を強ばらせている彼女を抱きしめた。

そしてそっと頬にキスをし
その唇をゆっくりと滑らせ彼女の唇に柔らかく重ねた。

ソニはふわりと包まれたジンの香りに思わず強く目を閉じた。
混乱し取り乱した身体が熱くなる。
次第に深くなるくちづけに頭の中が霞みはじめ
心のどこかで望んでいた自分を自覚する。

しかし
巧みに絡みはじめたジンの舌に応えようとした瞬間
彼女の身体にいきなり電気が走った。
咄嗟に悲鳴にも似たうめきを発してジンを突き離す。

見る間に涙で曇るソニの瞳。
その場にしゃがんでごめんなさいと震える声にジンはひどく動揺した。

ソニの中に強烈なフラッシュバックが起こった。

もう遥か昔のことのようになったあの日々。
おまえだけだと囁く男との出会いに
生まれてきてよかったと初めて感じられた日々。

しかし彼女の中に小さな命が宿った喜びを告げたその夜
彼には捨てる意志のない家族があることを知った。

大切に育んできた生まれて初めての希望が足元から崩れた。

忘れかけていた闇が降りる。
また自分はひとりぼっちになった…
結局自分も母と同じように捨てられたのだ…
何度も死を考え一度は実行した。
しかし新しい命のことを考えると最後まで遂げることはできず
この命のために生きてみようかとも思った。

その命が消えたのはそれからほどなくのことだった。

ジンは彼女をそっと抱き起こし今度は静かに抱きしめた。
そして彼女のずれた腕時計を直してやった。
その下には自分を葬ろうとした名残がひっそりと覗く。

彼は震える小さな肩を包みながら目を閉じた。

「悪かった…」

低く優しい声が沁みる。

「すみません…もう…」

忘れたと思っていたのに…

ジンの胸の中で少しずつ落ち着いていくソニは
その暖かさにいつか満たされる日が来るかもしれないと感じながら泣いた。
新しい気持ちへの不安と同時に恐いほどの希望に締めつけられる。

声を立てて泣いたのは何年ぶりだろうか。
ジンの温もりはすべてを包んでくれるようだった。


漆喰の壁にグラスが当たり砕け床に散った。
その音は思ったより鈍いものだった。

ソニが帰った後
ジンはふたつの自責の念に怒りに似た気持ちをおぼえた。

ひとつはソニの気持ちを何もわかっていなかった自分に。
タクシーに乗る頃には彼女はいつもの笑顔を取り戻したが
まだ触れてはいけない部分に踏み込んでしまったようで
自分がひどく情けなかった。

そしてもうひとつは…ヒョンジュへの後ろめたさに。

ヒョンジュを亡くした頃
死んだような時間を過ごしながらやがて空腹をおぼえた自分に腹を立てた。
その時の自嘲的な想いによく似ている。

床に座り込みグラスの破片を見つめるジンの目から涙がこぼれた。 

ヒョンジュ…僕はどうかしてるのか?
僕の中には変わらず君がいながら彼女に惹かれる。
僕は楽しいと感じ…うまいと感じ…冗談を言い…笑う…

いったい何をはしゃいでいるんだ。

君はもう二度と笑って食事などできないのに。
透き通った朝日も…雨の匂いも…海の波の音も…春の風も
何ひとつ感じることができないのに。
なぜ僕はこんなに普通に生きようとしているんだ。

”また笑ってくれたジン へ”

ヒョンジュ…僕はどうしたらいい…
どうやって笑ったらいいんだ…
ジンは自分の腕を抱きながら声を殺して泣いた。


九、

それから数日後
父の身体がチューブ類から開放されたと聞きジンは病室を訪れた。

開けた窓の静かな雨音を聞きながら父の顔を眺めている。
深い皺と白い髪。
そこには昔の利己的な父の面影はない。

自分勝手は許さない、悔しかったら俺を越えてみろと
ひたすら息子に理想を追い求めた父。
全ておまえのためだ…その言葉をジンは吐き気を感じるほど嫌悪してきた。

ヒョンジュが逝った頃
ようやく息子に何が起こっていたのかを知ったジンの父の怒りは凄まじかった。
部屋のソファにひとり屍のように倒れている息子を引きずり
言葉もないまま床に押しつけた。
静止する妹の声がひどく遠くに聞こえる。

ー俺はいったい…何を間違えたんだ…

その時の涙を溜めた父の小さなつぶやきが蘇る。

自分に正直でありながらひとの想いを包み生きることがどれほど難しいか
今のジンには生々しく理解できた。
眠っている父の頬にそっと触れれば目の奥が熱くなる。

父とたった一度だけ行った少年の日の海の情景が頭をかすめる。
どこからの帰りだったろうか
突然車が故障して海岸の側で止まってしまった。
業者が来るまで仕方なく側の食堂に立ち寄り
その後海岸でぶらぶらと時間を潰したことがあった。

その時父は哀しいほど貧しかった子供の頃の話をした。
もっと勉強がしたかったとぽつんとつぶやく父の横顔が弱々しく見え
どきどきしたのを憶えている。

そんな父を見たのは後にも先にもその時だけだ。
多忙な父とゆったりとした時間を持つことのなかったジンにとって
それは唯一の親子らしい思い出のシーンとなる。

あの時の少し曇った空と海…
忘れられない風景の原点はそこにあった。


病院のロビーを抜けるとソニが立っていた。

「この間は…ありがとう」
「私こそ楽しかったです」
「…」
「胃の方は大丈夫でしたか?」

ソニは明るい顔で真っ直ぐにジンを見つめ返す。
思いがけないその笑顔がかえって彼を揺らし
中庭を見通せるラウンジに腰を下ろしてからも
ジンの心はざわついたままだった。

彼女は雨の滴の伝う大きな窓を子供のように見上げている。

「君は…強いね…」
「え?」
「僕は…まるで抜け出せずにいる」
「楽しそうにして下さったじゃないですか」
「でも…正直言うと…他のことも考えていた」
「わかっています」
「僕はいつまでたっても同じところに立っている気分だ」
「そんなこと言わないで下さい…寂しくなります」
「…」
「私は先生に会えて変わったような気がします…これからも変わりたいんです」
「ソニさん…」
「どんなにわずかでも…私も先生を変えたんだって思いたいんです」

思いがけないソニの強い視線にジンは戸惑った。

「僕は…」

言葉を飲み込み目を閉じる。

暗い闇の底から抜け出したいともがき続けてきた自分だが
そうすることはヒョンジュを忘れていくことだと
それは絶対に許されないと。
今もってどこまで遡って後悔すればいいのかさえわからずにいる。
そんな無責任な自分を放って変わっていくことなどできないと感じていた。

辛そうな影を落とすジンの睫毛はソニの心をキリキリと締めつける。
強い言葉とは裏腹にすがりたいような気持ちでもあった。

どれくらい時間がかかるのだろう…
お互いの距離はまだまだ遠いような気がした。

彼女はもう何も言わずにそっとジンの手をつつみ
ふたりは長いことそうしたまま動かなかった。


ソニから消え入りそうな声で電話がはいったのは
それからひと月ほど経ったころだった。


九、

もう日付が変わろうとしている時刻
ジンは急いでソニの住まいに向かった。

あれからソニとは何となく距離をおいていたジンだったが
そのただならぬ様子には慌てた。
もどかしく呼び鈴を押すジンを出迎えたのは力ない視線のソニだった。

「何が…あったの?」
「手紙が…」
「手紙?」
「先生の息子さんから…」
「落ち着いて…ゆっくり話してごらん」
「それで…父の…」
「え?」
「父の…」

ジンはソニを床に座らせ
握りしめている封筒をやっとのことで外し中味を取り出した。

手紙はソニを陰ながら見守ってくれたあの恩師の息子からだった。
母親が持病の発作で急逝したこと、
そして遺品の中にソニへの手紙が見つかったので送るという短い文が添えられていた。

手紙はいつでもソニの手に渡せるようにしてあったものだろう。
小さな写真とともに丁寧に二重の封筒に入れられていた。

 これは3年前亡くなったあなたのお祖母さまからお預かりしていたものです。
 あなたのご両親の写真とお父様の日本の住所です。
 お祖母さまはもしいつかあなたがお父様のことを知りたいと言い出したら
 渡してくれと私に託して逝かれました。

 お父様からの何十通もの手紙をお母様に見せることなく焼いたことを
 最後は悔いておられました。
 あなたにとって苦しいこれまでの人生だったと思いますが
 あなた以外の方にもそれぞれの深い想いがあったことだけはわかって下さい。
 
そして「あなたの気持ちに正直に生きて下さい」と締めくくってあった。

ソニの目から涙が溢れ出る。

恩師の突然の死と思いがけぬ祖母の想い
そして幻だった父の実像の手がかり。
どう対処していのかわからずジンに連絡を入れるのが精一杯だった。

ジンは混乱し泣き続ける彼女を抱きしめた。

写真は祖母がソニについに渡しそびれたものなのだろう。
すっかり色あせたその小さな四角い静寂に
一組の男女が穏やかな表情で並んでいる。

母親はソニによく似ていた。
その真っ直ぐ前を見ている目の強さまで。


ジンはソニの横に腰を下ろし一晩中その肩を抱いてやりながら
彼女がぽつりぽつりと語る母の思い出に耳を傾けた。

「小さい頃…母が部屋の壁にいきなり絵を描き出したんです」
「壁?」
「私が友達と同じ絵の道具が欲しいとひどい我が侭を言った時です
 水彩で壁いっぱいに樹の絵を描いて…ものすごく驚きました」
「それは驚くな…」
「母は描きたいものがあれば道具なんて関係ないって…子供心に納得してしまいました」
「うん…」
「でも大家さんにはすごく怒られましたけどね」
「ふふ…」
「後で聞いたらあの絵は父との思い出の場所ですって…
 樹らしきものがあるだけで私にはさっぱりわからなかったんですけど…」
「…」
「きっと…母の大事な場所だったんです…」
「うん…」
「何で…」
「ん?」
「何で笑っていられたんでしょう…そんな大事なものをなくしたのに」
「…」
「それをずっと考えてました」

「なくしたわけじゃ…」

ないのかもしれないよ…そう言いかけてジンは止めた。
何かを言ってやれるほど自分もわかっているわけではない。

こんな時は長い間勉強してきたことなど何の役にも立たない。
患者たちに言って聞かせてきたことなど…
自分は何ひとつわかっていないような気がする。

ー肝心なことは目に見えないものなんだ

誰の言葉だったろうか。
頭のどこかにそんな言葉がよぎった。


「私…行きたい…」
「え?」

明け方近くになって顔を上げたソニはジンを真っ直ぐ見つめた。

「お願いです一緒に行って下さい」
「まさか…日本に?」
「はい」
「ちょっと待って…」
「父に会いたいんです」
「会って…どうするの」
「わからない…でもこのまま黙ってるなんてできない」
「でも…」
「お願いです…ご迷惑は承知です…もうそれを最後でもいいですから」
「何を言ってるんだ」
「言いましたよね、あなたに会えて変われたって…もう少しだけ力を貸して下さい」
「ソニさん…」
「ひとりじゃ…恐いです…お願いです…」

ジンは彼女が父親に会いに行くことには賛成しかねた。

古い時間を掘り起こして尚傷つくような予感がした。
これほどまで絡みもつれた情と
そして違う国の土に生きるその父親と
建設的な再会ができるとは正直言って思えなかった。

「ひどい結果になるかもしれない」
「結果なんてどうでもいい…なぜ帰って来なかったのかを聞きたいんです」
「聞いてどうす…」
「私が生きていくためです!」
「ソニさん…」
「母は最後まで幸せそうだったんです、それがわからないんです
 憶えていますか? " Viva la Vida " …なぜその言葉なのか知りたいんです!」

生命万歳…
あの絵の美しい色彩はどこかヒョンジュを思い出させる。

どうしても無理ならば何とかひとりで行くと言うソニの言葉に我に返り
ジンはとうとう首を縦に振った。


空気が変わろうとしているのだろうか…
その向こうにあるものが全くわからず
言いようのない不安をおぼえる。
しかしもうその場に留まっていることも許されないのかもしれない…
そう感じてもいた。


ある夕方
デスクで長く考え事をしていたジンは急に立ち上がり
そして部屋の棚の奥にしまい込んでいた1冊の本を取り出すと
居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。

「肝心なことは目に見えない」その言葉の所在を思い出した。

ジンはヒョンジュの叔母から数冊の彼の本を譲り受けていた。
「Le Petit Prince」は彼が何度も読み返していたもののひとつだ。

それまで読書の好みもほとんど束縛されていた彼は
自由になってからというもの本を手放すことはなかった。

ぱらぱらとページをめくれば過ぎた時が広がる。

ヒョンジュは小さな王子の風のような言葉が好きなのだと言っていた。

  ひとはみんな違った目で星を見てるんだ。
  旅行者の目から見れば星は案内人だね。
  ちっぽけな光くらいにしか思ってないひともいる。
  学者の中には、星を難しい問題にしてるひともいる。
  僕が出会った事業家なんかは金貨だと思ってた。
  けれどその星たちは、みんな何も言わずに黙ってるんだよ。

指でそっと活字に触れてみる。

そう…
いっときは思えたんだった。
ヒョンジュに出会って。
こんな風に感じて生きていきたいと。

  でもね、君にとっては星が他の人とは違ったものになるんだよ。
  僕はあの星の中のひとつに住むんだ。
  そのひとつの星の中で笑うんだ。
  だから君が夜、空を眺めたら、星がみんな笑ってるように見えるでしょ。
  するとね、君だけが笑い上戸の星を見るんだよ。

ヒョンジュ…

僕は彼女と一緒に行ってみようと思うけれど。
少し…
歩いてみようと思うんだけど
いいだろうか…


日本に発つ日の朝ジンは父の病室に寄った。

日本行きのいきさつをゆっくりと話してみた。
父を混乱させるだけかと思われたが
何かを伝えなかったために後悔することはもうしたくなかった。 

思いがけずゆっくりと手を差し出した父が
かすれる声で「気をつけて行ってこい」と言いジンは驚いた。
それ以上詮索するような言葉はなく
2年前に息子を締め上げた時の不審の色はどこにもない。

父もまたこの2年間息子の「存在」について考え続けてきたのだろう。

まだコップで水分を摂れない父に
ジンはミネラルウォーターのボトルのキャップにほんの少しの水を入れ
そっと唇の間に滴らせてやった。
数滴の水で舌を潤しうまいと微笑む父。

あの海岸で見た父の横顔が蘇る。

ジンは時間ぎりぎりまでそこにいた。


十、

鎌倉の駅前は思っていたような古都の風情とは少し違った。
小さなビルがロータリーを囲み
バスやタクシーが並び人々が隙間を通り抜ける。

しかし初夏の鎌倉を楽しむ観光客の楽しそうな笑顔は一様に明るく
都会の街中の雑踏とはどこか違うゆったりとした空気が流れる。
ほのかに遠くの潮の香りを感じるのは気のせいだろうか。

大きく深呼吸をするソニの手には
慎重に何十回も確認した印だらけの地図が握りしめられていた。

ふたりはさほど広くないロータリーを抜け大通りに出ると
双方向車線の真ん中を通る参道、段葛(だんかずら)を歩いた。
真っ直ぐ500メートルほど先には八幡宮。
地図では反対向きに歩き続ければ海に出るようだった。   

車道から少し高くなった数メートル幅の壇葛は独特の景観だ。
左右の桜とツツジは青葉をたたえ人々を迎える。
春には白いトンネルとなりさぞ素晴らしい光景なのだろう。

リュックサックを背負った人々はそれでも桜の花を見るかのような速度で歩く。
両側の車道を人力車が軽やかにすり抜けていく風景に
時間がゆっくりと過ぎていくような錯覚をおぼえる。

八幡宮の中の参道には進まず右手にそれて小さな池のほとりを進み
地図を頼りに細い路地に入って行く。
そこまで来ると観光客の影はほとんど途絶え
古い民家と新しい家が入り交じる住宅街へと続いていた。

そこにも瑞々しい葉を茂らせた桜の木があちらこちらに立つ。
ジンは時々先を急ごうとするソニの手を引いて立ち止まらせ
美しい緑や枝に休む鳥
時に樹々の間を移動して驚かせる台湾リスに眼を向けさせた。

その度に彼女は冷静を見失いそうな自分に気づき呼吸を整え
そして眼を覗き込むジンの落ち着いた微笑みに安堵した。

ふたりは記された住所の古い木の門の前に立った。

祖母の書き残したものを慎重に調べてはきたが
表札にその名前を確認すると緊張が走る。
かなり前に学校の教諭を辞め
家族もなくひとりで過ごしていることまではわかっていた。

突然の訪問が無礼であることは重々承知の上だったが
事前に連絡すれば父が姿を消すのではないかという不安をソニは拭えない。

人違いであってくれたら。
そんな逃げたいような想いも心のどこかで渦巻いていた。 

中々呼び鈴を押せずにいると通りがかった婦人が
「今そちらはお留守ですよ、昼間はこの先のお寺にいますよ」
と日本語で話しかけてきた。

ソニがゆっくりと聞き直すと
初めて日本人ではないとわかった婦人はふたりを興味深そうに見てから
英単語とゼスチャーを混ぜて近くの寺のにいるということを伝えた。
地図に丁寧に寺の場所を書き込んでくれた婦人に礼を言って
細い道をそのまま東に向う。

その古い寺は道の行き止まりにひっそりと門を構えていた。 

辺りは静まり返り聞こえるのは樹々のざわめきと鳥の声だけ。
ジンは門の前で動かなくなったソニの手を取り進んだ。   

苔の付く石畳の先には小さな木の建物が見え
左に逸れた木戸の向こうには竹の林が揺れている。
先ほどのざわめきはあの竹の葉の音なのだろう。
しっとりとした樹の香りが雨の後のように一面に漂っていた。

通りがかった寺の者らしい年配の女性に父の名を告げると
その女性は一瞬大きく眼を開き待つように言って急いで庭の奥に消えた。

「どうしよう…やっぱり…」
「僕が側にいる」
「でも私…」

小さな物音がしてソニが振り返ると
そこには若草色のセーターに身を包んだ長身の男性が立っていた。
ジンはソニの手を強く握った。

男性は木戸に手を掛け何の感情も読みとれない表情でこちらを見つめている。

そしてその男は
ひと言「ジェヨン?」とつぶやいた。


どれほど沈黙が続いたであろう。

時々風にしなる竹がぶつかるカーンという不思議な音が聞こえる。
ジンはソニの手が震え出したことに気づいた。

ソニにとってこれはやはり現実だった。
写真の中の男が時を越えそこに立って呼吸をしている。
母の名を呼ぶこの男は自分の父親なのだろう。
もう逃げられない。
夢に引きずられここまで来てしまったが。

しばらく声が出なかったソニはやっとのことで
「ジェヨンは私の母です」と言った。

男は全く事情が飲み込めていない様子でただ立っている。
聞こえなかったのだろうか。

「ジェヨンは私の母です…私はソニといいます」

もう一度口にしてみたが、それは自分の声でないような気もした。

なぜこの男は落ち着き払ってそこに立っているのだろう。
もしやこの男は母の名は憶えていても
母との約束など記憶の中にないんじゃないだろうか。
ソニの腹の奥が次第に暗く渦巻き始めた。

「私の父は…日本人だそうです」

こんな切り出し方をする予定では…なかった。
男の表情に初めて変化が現れたように見える。

「意味…おわかりになりますか?」

自分でも驚くほどの低い声だった。
ジンが思わず彼女の顔を凝視する。

「母はたったひとりで子供を産みました」
「…」
「必死で子供を育ててボロボロになって死にました」

驚いたジンが咄嗟にソニの腕を引き制した。

ソニもそんな言葉が自分の口をついて出るとは思ってもいなかった。

初めまして…ジェヨンを憶えていますか
彼女は結ばれなかった男性との子供を産み育てました
最後までその男性を想っていましたと
静かに口を開くつもりで何度も予習をした。
微笑みの用意さえしてきたのだ。

しかし全てが音もなく吹き飛んだ。
この人は何もわかっていないのかもしれないと思った瞬間
父親への微かな希望も恐れも
複雑な想いの全てが散り散りに消えた。

「どうして母を捨てたんですか…なぜ帰ってこなかったんですか」
「ソニさんよしなさい」

この男が全ての始まりなのだ。
寂しそうな母の背中と自分の悲惨な体験のその部分だけが洪水のように蘇り
それだけではない
なぜか自分を捨てた男の顔までがいきなり渦巻き出し
思わず声を上げてしまった。

こみ上げてくる泥のような感情が止まらない。

男は凍りついたように佇み
次第に顔色が変わっていくのがわかる。

「母はずっと待ってたんです…死ぬまであなたを庇って信じてたんです」
「ソニさん!」
「36です…母は36歳で死んだんです
 何であなたはそんな明るい綺麗な色の服を着て元気でいるんですか!」
「そんなことを言うために来たんじゃないだろう!」
「母はずっと待ってたんですよ!」
「いい加減にしろっ!」

ジンは乱暴にソニを抱きしめ言葉を遮った。
男はふらついて木戸に寄りかかり、その目は宙を彷徨う。

「そんな…」

男の目はソニの身体を通して遠くを見ているようだった。

「どうなってるんだ…いったい…ジェヨンは…」

男が韓国語でそうつぶやきソニ自身に視線を戻した時
ソニの目から涙が溢れ出た。

「あなたを想って想ってただそれだけで逝っ…」

ジンが自分の胸に彼女の顔を押しつけ無理矢理言葉を断った。

「もうよせ…頼むから」

ソニの身体から一気に力が抜けた。

ジンの肩越しに見える男は本当に父なのか。
力なく視線を泳がせるその男がひどく弱々しく見える。

そして無性に情けない気持ちになった。
長年の想いがこんな下劣な言葉にしかならない自分に。

ソニは何かを言いかけたが声にならず
ジンの腕を振りほどいて門の外に走り出た。

ジンはペンを取り出し
地図の切れ端に横浜のホテルと自分たちの名を走り書きして男の手に握らせた。
「すみません、後ほど必ずご連絡します」と頭を下げて門に向かう。

一度だけ振り返ったジンの目には
香り立つ緑の中の男の姿が淡い水彩画のように映った。


来た道を泣きながら歩いているソニの腕を掴む。

「ソニさん!」
「ごめんなさい…」
「お父さんをあのままにして帰るのか」
「ごめんなさい…何が何だかわからなくなって…」
「落ち着いて」
「あんなことを言うつもりじゃなかったんです」
「ソニさん…」
「どうしていいかわからない」
「ソニさんっ」
「どうしよう…私が台無しにしてしまった」

ジンはそれ以上続けるのを諦め小さなため息をつく。
失敗した。
彼女がこうなることも想像するべきだった。
自分がついていながらひどい怠慢を働いたような気になった。

「一度ここから離れよう」

ジンは後方の寺の門を気にしながらも
ソニの肩を抱き駅に向かった。


横浜のホテルに戻るまでふたりは言葉を交わさなかった。
電車の車窓の風景もソニの目には映っていなかっただろう。
ぼんやりと窓に頭をもたせかけ向こうに座っている親子連れを見ていた。


港のホテルには2つの部屋を用意してもらっていた。
昨夜のソニにはひとりになり十分気持ちを落ち着けてもらったつもりだったが
側にいてやるべきだったのだろうかと
そんなことまで小さな後悔に変わっていた。

すっかり肩を落としているソニを彼女の部屋のベッドに座らせる。
前に膝をつき覗き込むと彼女はようやくジンの顔を見た。
その表情は元に戻ったように見えたが
やはり自分の吐いた言葉に傷ついているのだろう。

「あんな風に…言うつもりじゃなかったんです」
「わかってる」
「ちゃんと母の話を伝えるつもりだったんです…あの人に恨み言を言うために来たんじゃない」
「わかってるよ」
「情けない…過去を罵っても何も変わらないのに…」
「ソニさん…」
「これからのためにって大口を叩いたのに…」
「…」
「母に何て謝ろう…私…」
「大丈夫だよ…」

ジンはうなだれるソニの頬にそっと手を伸ばす。
大丈夫…
以前にもこんな言葉を言ったことがある。
そう…あの時のヒョンジュに。
どうすることもできずただ自分の気休めに言い続けた。
何の説得力もないそんな言葉を彼はどう受け止めていたのだろう。

また…繰り返すわけにはいかない。

「いい?…僕はこれからもう一度お父さんに会ってくる」
「え?」
「会ってちゃんといきさつを話してくる…彼をあのままにしておくわけにはいかない」
「でも…」
「まずスタートに戻すにはそれが一番わかりやすい方法だ
 僕が一緒に来たことにも意味があるはずだろう?」
「…」
「僕はね…もう…自分にできるかもしれないことを先延ばしにしたくはないし
 わからないまま先に進みたくもないんだ…わかるね?」

ソニはずいぶん長いことジンの目を見つめ
そして小さく頷いた。
ジンの言っていることはわかるような気がする。
私だけのことではない…彼自身の話でもあるのだろう。

ジンはソニに暫く横になるように言い
彼女が医師に処方してもらっていた睡眠導入剤を半量飲ませてやる。
疲れ切った身体が眠りについたのは
大きな窓の向こうが茜に染まる頃だった。

ジンは暫くその窓に寄りかかっていた。

港の端に建つそのホテルからは遮る物なく海が見渡せる。

心の中にある曇った情景とはまるで違う海。
こんな風景を以前見たような気がするがどこだったろうか。

凪いだ水面は空の色に幾重にも染まり
青紫とうす紅色のヴェールが無数に重なりあったような美しさだ。
右方に見える橋は白い羽根を広げるように真っ直ぐ伸び
遥か向こう岸の埠頭は夕陽を受けて橙に輝く。
そこから溶け出したような色の空はやがて上方の果てしない紺へと続いている。

ああ…そう…
あの絵。

どうしたわけかその光景はあのスイカの絵に似ているような気がした。
胸の中の深いところを包まれるような暖かさ。

そして目を閉じれば
その空気はゆるりとあの物語にも繋がっていく。

「ね…ひつじの絵を描いてよ」

初対面の飛行機乗りに砂漠の真ん中でひつじの絵を描いてくれとせがむ少年。
仕方なく絵を描いてやるとどれもイメージと違うと言う。

  私はもう我慢しきれなくなって大雑把にこんな絵を描きました。
  ーこいつは箱だ!君の欲しいひつじはその中にいるよ!
  ぶっきらぼうに言ったんですが
  少年の顔がパッと明るくなったので私は面くらいました。
  ー僕はこんなのが欲しくて堪らなかったんだ!…ねぇこのひつじ草を沢山食べる?

ジンは薄紅の窓の中でひとり優しく微笑んだ。

彼は気づいていただろうか。
その穏やかな微笑みが遠いあの日以降初めてのものだということを。

振り向けばソニが涙のあとを残して眠っている。

ジンは紙に書かれたソニの父の電話番号を取り出した。
深呼吸をして部屋の電話の受話器を取り上げようとしたまさにその時
それが音を立てた。
ホテルの交換手の丁寧な声はソニの父の名を告げた。


十一、

ジンはソニの父の家の居間で彼と向かい合っている。

小さいが隅々まで手入れされた清潔な家。
古い日本家屋にはしっとりした木の匂いが漂い
床の間に生けられた野の花は
住んでいる者の穏やかな日常を物語っているようだ。

ソニの部屋に電話をかけてきた父は彼女の状態を聞きそのまま切ろうとしたが
ジンは自分と会って話をさせてほしいと頼み込んだ。

年代物の電燈がソニの父の端正な顔に陰影を落とす。
目元が彼女に似ているとジンはぼんやりと思った。

ジンはその日突然相手を驚かすはめになったいきさつを詫び
ソニの言葉は本心ではないと言葉を続けた。

「いえ…当然です…当然の言葉です…」

ソニの父は…ひどく泣いたのだろうか、目が腫れていた。

彼は長いこと俯き黙っていたが
目を伏せたまま口を開き、ぽつりぽつりと自分の話をし始めた。
30年近くほとんど使わなかったという韓国語は
時々つまりながらも十分通じるものだった。

自分と彼女との間に子供がいたことは今日まで知らずにいた。
しかしソニの存在そのものは知っていたという。

「どういう…ことですか?」

再び彼女の元に戻るつもりで日本に帰ったが親の反対の凄まじさは予想を超えた。
行くなら俺を殺してから行けと殴る父に耐えられはしても
それが原因で体調を崩した母の涙には抗えなかった。
折しも父の事業が酷い窮地に立ち自分も研究を諦め手伝わずにいられなくなる。

必ず迎えに行くという手紙を何十通も出したが
ただ一度の返信もなく焦り辛い日々を送った。

「もう忘れてしまったんじゃないかと…何度も諦めようとしました」

彼は小さな庭に揺れる樹の影を見つめ遠い目をしている。
取り戻せない時間の哀しさはジンには容易に想像できる。

不意にジンのポケットの中の携帯が無音で震えた。
ジンはその相手を確認すると
彼の言葉を遮ることなくそっと通話ボタンを押し、そのまま手に持った。

「たった一通の手紙は彼女のお母さんからのものでした」

彼の母が亡くなったその頃に
「ジェヨンは結婚した、娘の幸せを願うならもう関わらないでほしい」
という手紙が届いたという事実にはジンも驚いた。

「信じたんですか…その手紙を」
「…」
「そうなんですか?」
「私…やっと自力で韓国に渡れるようになって…行ったんです」
「ソニさんの…家にですか?」
「ええ…忘れもしない…あの追い返され続けた家…」
「…」
「家の外にいた女の子がジェヨンをお母さんと呼んでいた」
「…」
「かわいい子でした…すっかり痩せていたけどジェヨンはその子を大事そうに
 本当に大事そうに抱いていたんです」
「…」
「思いもしなかった…まさか…それが私の子だなんて…」

父の赤い目から涙が溢れ出た。  

ジェヨンはやはり幸せに暮らしているのだと確信し落胆し
引き裂かれるような痛みと共にそこを後にした。

「帰りのバスの中で泣いたのを憶えています…」

彼女が幸せならばそれでいいのだと自分に言い聞かせて生きてきたが
数年後、彼女が亡くなったという知らせを受けてから暫くは
その支えの気持ちさえも失い塞ぎ込んだ。

「でも…今思えば…彼女のお母様がそんな知らせをくれたのも
 私のことを気にかけてくれていたということなんでしょうね…」

結局結婚もせず中学の国語教師をしながら父親を看取った。
おそらくその父親とも口にできぬ葛藤があったのだろう。

向こうの部屋の鴨居に架けられた父母のものと思われる古い写真は
静かにその話を聞いているようだった。

ジンは何も言えずにいた。
せめてもうひと回り遠くから自分を見つめていられたら
もうひと呼吸を待つ自分でいられたなら違った結果になっていたのにと
きつく目を閉じる男に掛けられる言葉はなかった。

事情は全く異なってはいても
その姿は自分の姿のように思えた。

ー俺はいったい…何を間違えたんだ…

父の言葉がまた蘇る。




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